真田城

標高27m、比高10m。実田要害とも。

現在の天徳寺は、天正二年(1574)にすでに廃城になっていた真田城の地に建立された(『新編相模国風土記稿』)。築城は鎌倉時代で、治承四年(1180)源頼朝の石橋山合戦に参戦・討死にした真田義忠の拠点であった。その後、戦国時代に北条早雲が小田原城を大森藤頼から奪うと、彼は真田城に逃げ、三年間に亘って攻防を繰り広げたものの明応七年(1498)に落城した(『かながわの城』)。

天徳寺の裏手、墓地が「そがくるわ」と呼ばれる主郭で、その周辺には「こしまき」と呼ばれる帯郭が巻いている。また墓地には「櫓台」とされる高地が見られる。

また、周辺の造成時に空堀が出土し、『新編相模国風土記稿』に「四方に堀の跡あり」と記された裏付けがなされたが、調査後、開発のために破壊されたようである。平塚市真田、大根川に架かる真田橋の南・天徳寺が城址。

 

 (【左写真】天徳寺 【右写真】「そがくるわ」と呼ばれる主郭は墓地になっている。)

 

 (【左写真】主郭の端には櫓台が残っている。【右写真】最近の開発で空堀が出土したが、すでに破壊されていた・・・。)

 

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