深大寺城

創築年代不明。天文六年(1537)に再興。標高50m、比高14m。

扇谷上杉朝興が天文六年(1537)に病歿し、その子・朝定が十三歳の若さで跡を継ぐと、それまで侵食されていた後北条氏に対して態勢を挽回すべく、廃城となっていた深大寺城を再興した。しかし北条氏綱は同年七月十五日、逆に朝定の居城・河越城を攻略し、上杉氏は滅亡し、深大寺城も廃城になった。

この時、上杉氏側は後北条氏が深大寺城を攻めてくると考えていたが、同軍はにわかに河越に侵攻したので肩透かしを食い、当城を中心とする顕著な合戦はなかったとされる(『日本城郭大系』)。

城址は深大寺のそば、武蔵野台地南部に多摩川の作った河岸段丘の一つ「武蔵野段丘」の崖上に位置する。都内としては一流の遺構を有すし、郭、土塁が良好に保存されている。郭は3つあり、三の郭はテニスコートとなって消滅しているが、広大な二の郭と、最も残存度の高い主郭が見られ、一部、空堀などは発掘調査を基に復元されている。周辺は柵で囲まれているので、「水生植物園」から入城するしかない。

 (現地縄張図)

 

 (【左写真】主郭の城址石碑 【右写真】主郭は断崖に迫り出した先端部にある。)

 

 (【左写真】主郭には櫓台があったされる高土塁もある。【右写真】出郭を巻く土塁も分かる。)

 

 (【左写真】主郭虎口部。復元だが土橋になっている。【右写真】主郭周辺の復元・大空堀。)

 

  (【左写真】空堀はクランク状になっている。【右写真】後年の手が入っていない空堀も一部に残るが籔化。)

 

  (【左写真】二の郭は非常に広大で屋敷群があったのだろう。【右写真】発掘結果に基づく建築物支柱の復元。)

 

  (【左写真】二の郭土塁。左手には民家があり、かつての帯郭という。【右写真】二の郭下にある竪堀。)

 

 (【左写真】二の郭と三の郭を隔てる空堀。【右写真】三の郭は消滅した。)

 

戻る

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送