三才山城

標高1110m、比高310m。

小笠原氏麾下の赤沢氏が浅間館にあった頃、周辺を固めるために用いた城との説がある(『日本城郭大系』)。

稲倉城の東方の固めとして築かれ、赤沢氏の武将・赤羽大膳が守ったという。鞍部に空堀跡があり、少し下ると井戸跡がある。鞍部から北西の尾根先に登ると本丸の平地がある。北側に長さ135m帯曲輪(馬場)があり、居館は小日向の「大屋敷」にあった(『本郷地区景観整備委員会・現地説明板』)。

城址は、かなり埋もれているが、土塁に囲まれた主郭に、それを区画する堀切などが残っている、単郭の小規模な城塞であったと思われ、相当な山奥に位置している。遺構としては、戦国時代そのままの状態であろう。

登山路はいくつかあるようだが、いずれも明確な道は無い。国道254号を小日向集落に入って、ごみ集積場の裏に城址入口の碑がある。それに従って登っていくが、ほどなく道は消滅。傾斜45度の超急坂をひらすら攀じ登ることとなる。わずかにケモノの踏み跡があるが、尾根に出るまで極めて過酷である。尾根に出て山頂へさらに登り、計40分の登山。下山はその尾根筋を降ったが、これも途中で道が無くなり、しかも相当な急斜面で登攀は困難だろう。しかも山麓では籔に阻まれる。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の縄張図)

 

(【左写真】主郭。整備されておらず雑木が林立している。【右写真】主郭手前の堀切。

 

(【左写真】主郭を巻く土塁。【右写真】主郭搦め手虎口の土塁は一段高い。

 

(【左写真】主郭の周囲には帯郭が巻いている。【右写真】主郭搦め手の堀切。

 

(【左写真】大手口から主郭を望む。【右写真】尾根筋にも空堀状の地形があるが遺構かは疑問。

(城址遠望。奥の山頂にあり。)

(稲倉城からの遠望)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

(【左写真】山麓にある城跡入口の石碑。【右写真】しばらく道はあり、後年の耕作地の土止め石積みも見られる。

 

(【左写真】しかしすぐに道は消滅。すさまじい急斜面を登る。中腹までは竪堀状の地形を攀じ登り。とても直線では無理で左右に迂回しながらとなった。【右写真】それも無くなると、わずかな獣道に従ってとにかく登攀。

 

(【左写真】下山は尾根道を。しかしここもすごい急斜面。【右写真】最後に降り立った場所は籔で、道など無かった。

 

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