観勝院山城

標高820m、比高190m。大和田山城、松川山古城とも。

観勝院(かんしょういん)山城は、大洞山(1091m)から南へ延びる尾根に構えられた山城。ゆるやかな傾斜の尾根すじを横に切って掘られた五条の空濠と、その間を段々に平げて作った大小の郭をつらねる連郭式山城で、南北200mに及ぶ。ここは北方の西山城跡や、南方の布上山城跡・城ケ峯山城跡などとともに、仁科氏が西南方の敵に備えた城砦群のひとつといってよく、守っていたのは、仁科氏の支族・大和田氏であったと伝える。この城は天正十年(1582)仁科氏滅亡の時か、あるいは元和元年(1615)一国一城令発布の時点で廃止されたとみられる(『平成八年 松川村教育委員会・現地説明板』)

城主は、大和田大蔵丞盛久で、享禄・天文年間(1532-1570)に当地を領した人物と伝わる。その先祖、大和田盛氏は、室町後期永正年間(1504-1521)頃に観勝院を建立したという(『信府統記』)。

遺構から、尾根の先端部の平らな部分を利用して、これをいくつかの堀で切った連郭式の縄張りといえる。その構造は、戦乱が激しくなるにつれて、竪堀の掘り下げが長くしたり、不安な場所へ削平地を加え、次第に重厚なものになっていった様子が窺え、至近に西山城や布上城があり、仁科氏の南方小笠原氏に備えたものが、武田氏統治時代に入っても信越国境防衛のために、また安曇地方掌握のために利用されたものと考えられる(『図解 山城探訪』)。

城址へは、大和田の観勝院跡地から登山道が延びており、かつて整備されたらしく、説明板や案内棒が完備している。しかし、斜面の堆積・崩落で登山道は明瞭でなくなり、結局20分ほど直登を強いられた。遺構は往時そのままの状態で残っている。

(宮坂武男著『図解 山城探訪』掲載の鳥瞰図)

 

(【左写真】主郭の裏手、搦め手の虎口部分。【右写真】搦め手虎口の堀切。城内最大のもの。

 

(【左写真】主郭。尾根を利用した細長い地形。【右写真】主郭碑

 

(【左写真】主郭の端には土塁と窪地がある。ここは雨水溜めとも云われる。【右写真】主郭を巻く帯郭。

 

(【左写真】主郭に付随する二の郭。【右写真】二の郭下の堀切。

 

(【左写真】三の郭 【右写真】三の郭下の堀切。土橋がはっきりと確認できる。

 

(【左写真】四の郭 【右写真】四の郭の西側を守る竪堀。

 

(【左写真】四の郭を巻いている帯郭。【右写真】四の郭下の堀切。

 

(【左写真】五の郭の「横郭」。城の最前線となる重要な郭。【右写真】五の郭「虎口」部分。

 

(【左写真】山麓の「観勝院跡地」。【右写真】城址遠望 

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

(【左写真】このような急斜面を20分攀じ登る。【右写真】標識はあるが、道は明瞭でない。

 

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