菖蒲城

菖蒲城(しょうぶ・★埼玉県久喜市菖蒲町新堀)は菖蒲町の平野に存在した城塞。

康正二年(1456年)古河公方・足利成氏が、に金田式部則綱に命じて築城させたという。城の竣工が五月五日の菖蒲の節句にであったために命名されたとされる。
天正十八年(1590年)小田原征伐ののち廃城(Wikipedia)

建武三年(1336)に足利尊氏によって京都に開かれた室町幕府も、15世紀の半ばになると、京都の足利将軍家と関東を治める鎌倉公方の足利氏との間に対立が生じ始める。さらに、鎌倉公方を補佐する役職である関東管領を代々継ぐ上杉氏も、その一族内で内紛を繰り返えし、複雑な勢力争いになっていた。宝徳元年(1449)、幕府に背いて上杉氏に滅ぼされた鎌倉公方の足利持氏の子・成氏が鎌倉公方に就任。成氏は上杉氏と対立、幕府も成氏追討の命令を下し、激戦を繰り広げるものの、下総国の古河に敗走して、古河公方と呼ばれる。(『菖蒲町役場資料』) 

こうした状況下、康正二年(1456)に古河公方の家臣・金田則綱が築城。上杉氏との攻防の最前線を目的としてのようである。時代が下り、菖蒲城は天正二年(1574)、北条氏政と上杉謙信との戦いの際、騎西城とともに城下を謙信に焼討ちにされた。豊臣秀吉の小田原城征伐で周辺の城とともに落城。江戸時代には内藤氏が旗本として陣屋を構えて明治に至る。

現在、城址は見事に農地とあやめ園にされ、栢間陣屋移築城門と城址碑が残るのみである。

 

 

(【左写真】城址石碑 【右写真】城址遠望)

 

(【左写真】城址の様子。耕作地となり、遺構は全くない。【右写真】伝・栢間陣屋の裏門が移築されている。)

 

再訪:2014年8月5日13:40頃

(以前の記事)

  

(【左写真】城址石碑 【右写真】城址遠望)

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