向畑城

向畑城(向畑陣屋とも★埼玉県越谷市向畑)は、古利根川が曲流する新方集落の堆積地に位置したとされる。

永正元年(1504)八条郷地頭・八条惟茂は新方荘に侵入し、新方頼希を破り、この地を奪ったという(『大松村栄広山由緒著聞書』『日本城郭大系』)。

八条氏は武蔵七党の一つ野与党の一族で八条郷地頭

文亀四年(1504)正月八日、葛飾東新方領主向畑城主・新方次郎太夫頼希との争いがあって新方郷に攻め込んだ。新方氏は同じく手勢を率いて向畑城に出馬して小林郷に対陣して数日間合戦があった。同月晦日、新方頼希が兵を進めて大いに血戦して、一旦は八条氏を打ち崩したものの深追いして流箭のために命を落し新方家は敗北した。
新方頼希の兄の高賢上人(清浄院)は、永正十七年(1520)十月、縁者を集めて向畑城に夜討ちをかけ、八条氏家臣別府三郎左衛門が討死して城を奪還した。
永正十八年(1521)正月、八条惟茂は自身で千人を引き連れて本陣として、先陣に青柳外記、小作田隼人、柿木小膳ら850人、二陣に大相模飛騨守、西脇左近右衛ら500人とともに別府郷へ出陣。ここに新方勢が夜討ちをかけ、別府氏、青柳氏、柿木氏らが総崩れとなった。八条惟茂の叔父・大曽根上野介も大相模へ出陣しており別府へ駆けつけて新方勢の背後を襲って優勢になった。しかし、新方勢の安国浄恩の兵が大曽根上野介の背後を攻めて大乱戦となった。
小作田隼人が身代わりとなって討死して八条惟茂はからくも八条郷に逃げ帰ったという。八条勢は850余人、新方勢は324人が討死したという(『大松村栄広山由緒著聞書』(清浄院所蔵)『武蔵七党系図』)。

ただ、この事は確かな史料には見られず、信憑性を疑問視する説もある。

その後もこの地の争乱は続いたが、城は戦国時代末まで存在したらしく、天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に廃城になったと推定される(『埼玉の中世城館跡』)。

現在は田畑・宅地となっており、明確な遺構は残されていない。微高地も見られるが、城の名残りとするには無理があろう。
『越谷市史』『岩槻市史』などが遺構は無いとしている。

また昭和61年に陶磁器が出土する水路を発掘したが近年の陶磁器の捨て場だったという(『越谷における中世城館跡』)。同書によれば、耕作地になる前は木の茂った小山であってという。

(参考サイト:帝國博物学協会

 

(『越谷における中世城館跡』に掲載されている地図。)

 

(【左写真】城跡遠望。【右写真】堀もしくは土塁とされる場所か。遺構だとは思えない。)

 

(【左写真】城跡の西の水路。堀の跡かも知れない。【右写真】城跡を北側から見たところ。)

(【左写真】「新方様」があったとされる場所。ここの水路には船が沈んでいるとの伝説があるようだ。)

 

(2015/02/25再訪)

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(【左写真】向畑の地は一面の畑になった。【右写真】微高地。遺構かは疑問だが・・・。)

(周囲を流れる古利根川。)

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