前山城

伴野城とも。標高726m、比高25m。

佐久郡西部に威をふるった伴野氏は、伴野庄の地頭として当初は伴野城に拠ったが、室町中期にいたって、詰めの城として前山城を構築し、後には本拠をこの城に移したという(『日本城郭大系』『定本 佐久の城』)。

天文九年(1540)五月、板垣駿河守は武田信虎の命を受け、大将として佐久に侵攻。臼田城(医王寺城)入沢城を始めとして、数十城を破り、前山城を築いて陣した(『妙法寺記』『塩山向岳禅庵小年代記』)。

天文十七年(1548)武田晴信が攻め落とし、以後、武田氏は佐久地方の拠点として重要視した(『高白斎記』)。

天正十年(1582)前山城は徳川家康の命を受けた芦田信蕃に攻められ、城将・伴野信守は討死し、兵火に焼かれて落城した。焼米その他の遺物が城址から出土するという(『日本城郭大系』)。

前山城は、蓼科山の一支脈突端に位置し、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一線につらなっている。北方は断崖の下を中沢川が流れ、東、南の二方は急傾斜で曲輪を設け、さらに屋根筋は堀切りによって防御線を構成している。

伴野方面から前山寺に向かって進むと、狭い一車線の道路になるが、お寺に通じる手前の理髪店がある交差点を右に曲がると登山道の看板を見つけることができる。

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』掲載の概念図

  

(【左写真】本丸址。佐久への見晴らしは実に素晴らしい。【右写真】本丸から二の丸を望む。)

 

(【左写真】三の丸。荒れ果てている。【右写真】二の丸と三の丸を区切る堀切で4mくらいはあった。)

 

(城址全景。登山は10分程度だが、登山道を発見するのは一苦労だった。)

 戻る

http://srtutsu.ninja-x.jp/index.html

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送