日岐氏館

日岐城の東方、裏日岐の在り、横30間、長さ18間、南向きの屋敷跡である。東と南の周りに土手があり、東側土手横2間、長さ10間、南側土手横1間、長さ15間で近くに的場、水汲街道等の地名が残っている。古くは高根主膳正のち生駒河内守、松平出雲守が居館したと推察され、肥後守盛慶もこの屋敷に居住し、明応中、正福寺を開祖という。この人、日岐村に居住せし故に、上生野、小立野、下生野、上生坂、下生坂、日岐のすべてを日岐大郷ととなえた。屋敷跡地が昭和二十年頃、開田され、その折、屋敷の礎石が数多く出土し、今も田の中に埋められている(『現地説明板』)。

昭和二十年まで残っていた土手は開墾によって消滅した。一段上には日岐一族の宝筐塔・五輪塔が並ぶ正福寺、その上段には馬場跡と思われる平地がある(『信州の山城』)。

氏館跡は犀川・生坂ダムの畔、水島公園の脇にあり、日岐小城への登山道の隣である。

 

(【左写真】氏館跡地 【右写真】ぶどう畑に碑が建っている。)

 (一段上の正福寺跡)

日岐(ひき)氏の歴史

日岐氏(日岐小城)は犀川の左岸を守り、対岸を守った丸山氏(日岐大城)とは一族であって、その区別はつかないという。いずれも森城主・仁科氏の一族であり、明応元年(1492)以前にこの地に入っている。

戦国時代、武田信玄が直接に日岐を攻めたという史料はない。しかし天文十九年(1550)七月仁科氏が武田氏に出仕しており(『高白斎記』)、これに連なったものとみられる。武田氏統治30年間は平穏であったが、天正十年(1580)三月に武田氏が滅亡すると織田氏が、六月からは上杉氏が支配するところとなった。当時、日岐小城は日岐盛武、日岐大城は兄・織部盛直が守っていたが、盛直が上杉氏の下に逃れている最中、八月八日頃に小笠原貞慶が盛武を攻め八月十三日に降伏させている。これを聞いた盛直は一族率いて大城に入り、城兵を説き伏せて日岐大城は再度上杉氏に属するようになった。上杉景勝はこれを喜び八月二二日付で盛直に感状を与えている。それを知った小笠原貞慶は再び攻略にかかり、八月二九日付で島立大学と犬飼半左衛門に日岐大城攻めを命じているが、攻略困難であったらしく、九月六日には貞慶自身が日岐へ出馬する旨を犬飼氏に報じている。日岐勢はよく戦ったが、小笠原氏の猛攻であえなく落城し、盛武は兄とともに上杉氏へ逃亡、翌年八月には貞慶へ降伏している。

以後、小笠原氏に忠誠を誓い、天正十二年(1582)八月には麻績城攻めに参戦、天正十八年(1588)六月の小田原城攻めでは貞慶の先鋒として活躍。同七月に小笠原氏が関東下総古河城に移封されるとそれに従ってこの地を去っている(『信州の山城』)。

 

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