腰越城

根小屋城とも。標高216m、比高100mの山城。治承四年(1180)山田清義の築城という(『青木家家譜』)。その後、代々の山田氏の居城となり、『関八州古戦録』には永禄六年(1563)「松山城へは上田案楽斉、同上野介朝広を還住なさしめ、青山、腰越の両砦とともに堅固に相守らせ」とあり、すでに戦国時代には松山城の支城であったことが分かる。

戦国期の山田家の当主は山田伊賀守直定で、彼は安戸を本拠地とし、松山城主上田氏の家老として使え、永禄五年(1562)上杉謙信第1次関東出兵の際の太田資正の軍勢との赤浜の合戦で討死している。大河原谷にある浄蓮寺は上田氏の菩提寺であり、腰越城から青山城、その先の小倉城菅谷青鳥城などを経由して、上田氏の居城である松山城へとつながるネットワークが形成されていたと思われる。

小田原城の役で豊臣秀吉軍によって松山城が落城すると、同時に腰越城も廃城に帰したようである。また、山麓の集落には「根古屋」の地名が残っており、当時の武士たちの居住地が広がっていたと思われる(『小川町教育委員会資料』)。

城址は槻川が館川と合流し、うねる要害の地にあり、県道11号の「木落しバス停」付近に登山道がある。道沿いに大きな案内看板があるので迷わないだろう。登山は10分程度だが、遺構の保存状況は大変よく、小川町の整備もとても行き届いている。

 

(【左写真】城址遠望。頂上に主郭。 【右写真】主郭。わずかに土塁も残存している。)

 

(【左写真】主郭虎口。虎口郭もある。 【右写真】二の郭)

 

(【左写真】西の郭の堀切 【右写真】搦め手の堀切から城址・主郭を見上げる。)

 

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