長窪城

標高720m、比高100m。深山城、霞の尾城とも。

応永年間(1400)大井城大井氏、または芦田城芦田氏(依田氏)により築かれたとされる。その後、佐久岩村田大井庄・大井氏の親類衆が永くこの地を支配し、長窪氏を名乗った。天文十二年(1543)九月、城主であった大井貞隆は武田晴信に攻められ降り、以降長窪城は武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。天正十年(1582)武田氏が滅亡するとともに小県一円は真田昌幸の領地となり、天正十一年(1583)昌幸が上田城を築いて配下の武士を上田城下に集めたことなどにより長窪城は廃城となった。当城と武田氏とのかかわりあいの主なものは次のとおりである(『現地説明板』)。

天文十二年(1544)九月
武田晴信(信玄)により当城主大井貞隆、捕らわれる。当城はこの後信玄による東・北信濃攻めの前進基地となる。

天文十七年(1549)九月
信玄、長窪城に着陣のあと、坂城葛尾城主村上義清を攻め、上田原合戦となる。

天文十九年(1550)二月
信玄当城に着陣し、重臣を2回にわたり、村上方の守る砥石城の偵察に出す。このあと戸石合戦となる。

天文二十二年(1553)八月
信玄当城に着陣のあと、和田城、高鳥屋城、塩田城等を攻め落とす。

天正十年(1582)三月
武田氏滅亡する。

天正十一年(1583)
真田昌幸、上田城を築く。このころ長窪城、廃城となる。
(『現地説明板』) 

城址は、国道254号から走る林道で搦め手まで車で行け、そこからすぐ城域になる。尾根上に空堀で区画された小郭が連続し、主郭と帯郭などが残っている。縄張りに高度さはないが、長門一帯を眼下におさめる要衝の地ではある。

(参考サイト:信玄を捜す旅 飛騨の山猿大王 馬念の城跡探訪 武田家の史跡探訪

(現地縄張図)

 

(【左写真】最高部にある主郭。一部土塁のような地形もある。【右写真】城址石碑 )

 

(【左写真】主郭から長門の平野を見下す。【右写真】主郭から背後の二の郭を見下す。)

 

(【左写真】二の郭から主郭を見る。【右写真】三の郭から二の郭への虎口部分。)

 

(【左写真】二の郭・三の郭間の空堀。【右写真】搦め手には、このような郭と空堀の設備が連続している。)

(城址遠望。中央の山の頂上に主郭。)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

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